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Beckett in Japan 2006
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Japanese

 

Borderless Beckett:
International Samuel Beckett
Symposium in Tokyo 2006
September 29 – October 1

パネル・ディスカッション(英 語)

「ベケットと20世紀の芸術」

イノック・ブレイター (ミシガン大学,サミュエル・ベケット協会会長)
アンジェラ・ムアジャーニー (メリーランド大学名誉教授)
リンダ・ベン−ツヴィ (テル・アヴィヴ大学)



20 世紀の演劇,小説において,ベケットはもっとも重要なヨーロッパの作家のひとりとして知られている。けれども,ベケット作品のはらむ美学的射程は,彼 が追求したジャンル,そして多くの場合,彼がつくりかえたジャンルの領域をはるかにこえている。批評家たちはベケットと音楽家,画家,彫刻家,機械的メ ディアまで含むその他の芸術家たちとの関係を,それぞれ繊細かつ,注意深くたどってきた。だがこのパネルの目的は,個別的な相関関係の議論の枠をとっぱら い,ベケットが生きぬいた時代の全体的な文脈のなかで,その芸術表象を検証することにある。つまり,ベケット自身はどれほど時代の文脈を生みだしたのだろ うか?ベケットの残した作品の余波はどこまで届くのだろうか?
イ ノック・ブレイター




子どもの遊びと見いだされた見ない技

アンジェラ・ムアジャーニ

ベケットの世紀,すなわち20世紀の初頭から,モダニストの芸術家たちはリア リズムの主題から遠ざかる運動に熱狂的にとり組んでいた。からだにしみついたものの見え方(と,見えなさ)の殻を打ち破ろうとする彼らの意志は,精神の複 雑なはたらきを証明しようとしていた思想家たちにも共有された。まもなく,伝統的な主題の転覆をくわだてる者にとって,知覚するものと知覚されるものの双 方にいえることであるが,子どもの遊びと芸術行為から学ぶべきおおくのものがあることが明らかになった。子どもの作品は,リアリズムとは遠くかけ離れてい る。子どもの作品は想像し,空想し,夢想することの快感と現実原則が交錯する移行空間(D.W.ウィニコット)に存するのである。

同時に,子どもの作品は,西洋芸術のリアリズムの伝統が慣習と既存の様式にも とづいたものでしかないことをはっきりと教えてくれる。子どもはその様式をまだ身につけていないし,大人はといえば,子どもの遊びのもつ異質なものの見方 から生まれる恐怖と快感を呼び覚ますためには,身についた様式を脱ぎすてなければならないのだ。西洋の芸術家が,世界の他の地域,とりわけ日本をはじめと する地域の芸術に対していだいた興味は,身についた話法の支配を破り捨てようとする情熱に火をつけた。ベケットはパウル・クレーやセルゲイ・エイゼンシュ テインを20世紀の偉大な芸術家として一目おいていたが,彼らの視覚芸術はこの見いだされた無知という点において卓越したものだ。ベケットも小躍りして彼 らの運動に加わることになる。彼らのねらいはこれまでとはちがった仕方で絵を描いたり,映画を撮ったり,舞台を創ったり,小説を書いたりすることにあった だけではない。観る者をこれまでとはちがった仕方で見るように(そして見ないように)し向けることにもあったのだ。

こうして子どもは親にとっての教師となる,詩人にとって子どもが教師であり続 けるように。言いかえれば,大人への適合と交換に,抑圧され,捨てられていた子どものもつ見ない技を,大人は取りもどすのである。

知の多彩な領域に通じていたことで知られているベケットは,フロイト,クライ ン,ビオン,ウィニコット,バタイユなど,同時代の芸術家や心理学者や思想家たちが子どもの遊びのもつ破壊的な性質について言わねばならなかったことや, 彼らの破壊的かつ建設的な芸術衝動を吸収して,みずからの思考や創作の形成に役立てた。その「移行空間」にほかならないテクストにおいて,ベケットはこの 素材をたたみかけるように過激に変質させた。アイロニーにアイロニーを,逆説に逆説を積みかさね,それによって20世紀の芸術をとおして誰よりも大胆に主 体の二重化/間化の装置をあみだしたのだった。ベケットの作品の心をかき乱すような,策略に富んだ「遊戯療法」の表現形式こそ,見ることの痛み(現実)と 見ないことの涅槃的「快感」のあいだを浮遊しながら,東洋と西洋の別なく,観客のあいだにどこまでもひろがっていく波紋を読み解く鍵となる。



gakushin

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